タクシードライバー(マーティン・スコセッシ、1976)

ロバート・デ・ニーロのモヒカンとかジョディ・フォスターの13歳とは思えない演技とか、見どころが多いし映像は結構スタイリッシュでかっこいい。が、鑑賞後感は何となく重苦しい。
ラヴィス(デ・ニーロ)のタクシー乗車中の無表情と、運転手仲間や女性に話しかける時の微笑との落差に病んだ精神を感じる。得体の知れなさ、不気味さ、いつ爆発するかわからないヒリヒリした恐怖。
行動だけ追えば、堅気の女性とのデートでポルノ映画、娼婦に説教、ヒモに説教、シークレットサービスに見咎められ逃走、のちヒモや娼婦の客らを皆殺し、と、かなり支離滅裂。義憤と欲求不満を混同している少しオカシくなった若者にしか見えない。怖いのは、そのオカシい若者の頭の中は至って論理的であるということ。
この映画は、ベトナム帰還兵問題、社会の腐敗、現代人の孤独などの視点から論じられることが多いと思う。しかし、そのような社会的メッセージではなく、もっとリアルな不安や無力感が画面から滲み出てくる。自宅警備員ワーキングプアなどが受けているんじゃないかと想像する、将来への漠とした不安感や重苦しさが人に及ぼす影響について考えさせられてしまった。
無知による社会認識の不足で、人は幾らでもオカシくなる。そうならないために教育があるんじゃないのか。そうなる前に誰か助けてやらないのか。何もかも「自己責任」で突き放した結果、街中みんなトラヴィスになっちゃう近未来を想像してしまった。ん?もうとっくにそうなってるって?